今回は、教育における国の保証を改めて考えてみます。
不登校小学生YouTuberなどを中心に教育に関して色々議論が巻き起こってます。
今回の記事は、世間的に言われている世論ではなく持論です。
内容を保証するものではありません。
ブロガーの戯論だと思ってください。
義務と権利に関して
まずは、義務と権利に関してです。
義務(ぎむ)とは、従うべきとされることを意味する。義務の根拠としては、理性、道徳・倫理、宗教、法制度(法令・契約など)、慣習などが挙げられる。義務に反した場合には、制裁があるとされる。制裁には、内面的・物理的・社会的なものがある。
権利(けんり)とは、一般に、ある行為をなし、あるいはしないことのできる資格。法律上は、一定の利益を主張または享受することを法により認められた地位、あるいは、他人に対し一定の行為・不作為を求めることができる地位をいう。日本において権利は権限を含む。対義語は義務。
ざっくりいうと、「義務は強制」「権利はするしないを自由に選択できること」です。
義務教育とは
義務教育とは、国や人が子供に受けさせなければならない教育のことです。
「国や人」という表現の理由は「親が、『お前(子供)は将来、農家を継ぐのだから教育なんて必要ない』」など学校教育を受けさせないというものを防止する為です。
世界的には、「初等教育(6歳から6-7年の教育:日本でいう小学教育)は「人権」として義務的に受けさせる必要がある」というように認識されています。
「自分の生まれが○○だから教育を受けることができない」というのは人権に反します。
識字率
識字率とは、国民が国語を読み書きして理解できる能力を示します。
日本の識字率は、99%です。
識字率をだす理由は、国連が調べているもので、国の教育指数を算出する為に調査しています。
東アジアでいうと「日本99%」「北朝鮮99%」「韓国99%」「モンゴル97.5%」「台湾96.1%」「中国95.9%」です。
識字率が高いほど、教育を受けさせている国で人権の守られている国という認識です。
逆に人権が守られておらず、教育が普及していない国はアフリカ大陸に多く、識字率が30%ほどの国が多いです。
「教育を受けさせる」ということは子供の未来を限られたものにしないという意味があります。
先進国の中でも識字率の低い中国は「農村などに行くと『農家の子は農家』」など教育がおろそかになっている地域があります。
また、アフリカに関しては、教育の重要性に関する認識自体が低く、後進国となっている所以です。(もちろん学びたい人はいますし、子供は好奇心旺盛です)
北朝鮮の識字率の高さに驚いている人も多いと思いますが、北朝鮮は非常に頭のいい国で、最高峰の人間に勝つAIを最初に開発したのは北朝鮮です(囲碁)。
また、ハッキング技術(悪いことですが)も非常に先進的で、2016年に流行ったランサムウェアや仮想通貨取引所の不正流出も北朝鮮が行ったことです。
北朝鮮のことは置いておいて、国が発展するには「教育」というものが必要だということです。
学齢
学齢とは、国が子供に対して、「教育を受けることが適正とされる年齢」のことを指します。
日本では、満6歳4/1からの9年間の教育です。
ここに問題があると思います。
ここから完全に持論
国が発展するための教育が年数というシステムで良いのでしょうか?
②そもそも教育が成熟する指標は「年数」ではなくて「点数」ではないか?
③そもそも学校という場所が必要なのか?
④専門性を学ぶ前の準備が必要なのでは?
中学までの教育で国が発展するのか?
個人的に国が発展するための教育は中学までで十分なのでしょうか?
個人的な考えでは、「そうではない」と思います。
昔は、中学までの教育でも、問題なかったでしょう。
今は?
小学校でプログラミングが必修になったとはいえ、レクリエーションのようなものです。
「プログラミングの能力が必須」となった場合、最低でも「微分積分」まで必須になるはずです(もちろん数学を使わないプログラミングもあります)。
例えば、AIを開発する場合は、高校数学を発展させたものがほとんどです(発展という段階で大学レベルですが)。
これからの未来を考えた場合、必要な学習はもっと深くなるのでは?と思います。
ただし、AIがもっと発展したら、人間が開発する必要がなくなるので、完全にコンピューターが人間の脳の代わりになってくれると思いますが。
初等教育のハードルが昔より上がっているのは確かかと思います。
そもそも教育が成熟する指標は「年数」ではなくて「点数」ではないか?
教育の成熟って年数でしょうか?
個人的には違うと思います。
LD(学習障害)の人等を除いて国が設定した水準にする必要があると思います。
学校というものは必要か?
これが難しい問題かと思います。
人は、社会性を学ぶ際に、集団生活から学ぶことが多いです。
これが、「学校という場所が最適」というのは現代社会では間違いありません。
友達とケンカしたり、気を使うことを知ったり、様々なものは、集団生活から学びます。
ですが、集団生活は全員に適しているものではありません。
それは「いじめ」です。
「いじめられるのには原因がある」これは不都合な真実であると思います。
例えば、LDの無いASD(自閉症等)の人やADHD(注意力欠如多動性障害)の人は、そもそも社会性を築くことが苦手です。
そういった原因があってもいじめても良い道理はありません。
ですが、いじめは様々な子供が集団生活をする上で発生してしまいます。
その場合に、教育が学校という形で義務化されていることが問題があると思うのです。
ここまでインターネットというものが普及している世の中で、学校教育一択という環境は、全ての人に適しているとは思えないです。
昔の環境なら、大部分の人に適しているものとは思いますが、現代社会では違うと考えています。
専門性を学ぶ前の準備が必要なのでは?
これは学齢とかとは全く関係ないのですが、専門性を学ぶ前の準備が必要と思います。
高校卒業後の半年〜1年を世の中のいろんなことを知るワクワク期間的なのを設けると良いのでは?と思います。
高校卒業以降に学ぶことって、専門的なことが多いと思うんですよ。
ですが、専門的なものを必要とする職種などを知ることができる前に、専門性を学ぶのは、ゴールが見えないのに、行き先の決まっているレールを選択するようなものです。
現状の教育課程で、高卒後に知る機会を設けても遅いっちゃ遅いんですが、「何をする為に、何を知るのか?」という順序は大切かと思います。
まぁいろんな意見があるにしろ「常識」の中だけで考えるのはよろしくないかと。
あと、いま学んでいることが、いつ何に役にたつかなんてわからないので、いっぱい勉強しましょうな。
以上です。